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和歌山地方裁判所 昭和35年(わ)44号 判決

被告人 江村和子

昭一五・二・二五生 皮革工

主文

被告人を懲役弐年六月に処する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は九歳の頃父に死別し、母の手により成人したが、家庭が貧しかつたので小学校も中途退学して和歌山市内の紡績工場などで女工として働き、昭和三二年頃から同市汐見町一丁目三番地の島田製革所で働くようになつたところ、同三四年六、七月頃から雇主の弟島田保(当二六年)と懇意により、屡々映画館や喫茶店などへ一緒に行き交際を重ねているうちに、互に愛し合う仲となり、やがては肉体関係を結ぶ程の間柄に発展し、ひそかに結婚の約束までするようになつたのであるが、もともと保の家族においては被告人と保の交際を嫌い、しばしば同家人より余り保に接近しないように注意されていたが、被告人は唯一途に保を信じて同人との結婚を期待して来たところ昭和三五年二月初頃に至り保の態度も急に冷淡になり、被告人自身当時既に妊娠していたことなどの事情もあつて、殊更に保との愛情に破綻を生ずるのを虞れていた矢先、同年二月二八日の午前中工場において保から同夜喫茶店「虹」へ来るように誘われたので、同日午後五時三〇分頃に約束の喫茶店に赴いたところ、保から突然冷たい態度で別れ話を持ちかけられ、あまつさえ被告人に対し他に男関係があるなどと云いがかりをつけたので、被告人としてはことのあまりにも意外なのに驚き且つ悲しみ、唯泣きぬれて保の翻意を求めるのみであつたが、保は終始被告人とはもはや結婚する意思はないと云うばかりで、いつまでも話がつかず、保に云われるままに一旦同喫茶店を出たのであるが、同日午後八時過頃更に保に従つて同市南材木町三丁目の「よしい旅館」こと朝比奈利雄方へ行き、同旅館の二階第一〇号室において被告人は保に自分が妊娠していることを告げて重ねてその翻意を嘆願したのであるが、保は一向に思い直す気配を見せず、あくまで素気ない態度を示しておきながら、同日午後九時過頃、被告人に対して接吻を求めて被告人を押し倒しその口中に舌を挿入したので、被告人はこれまで単に同人からもてあそばれて来たに過ぎなかつたものと思い、憤激の情その極に達し、とつさに自己の口中にある保の舌端に強く噛みつき同人に不慮の衝撃を加えたが、保の抵抗にあつて一度舌を離したものの、被告人は自己の絶望感と保に対する憎悪の念にかられ、この際保を殺害しようと決意し、その場にあつた電気炬燵のコードをもつて背後より同人の頸部を強く絞めつけ、同人をしてその直後、同所において前記舌部咬傷の出血による血液の気管内流入に伴い呼吸困難であつたところえ更に頸部を緊縛したため窒息により死亡するに至らしめ、以つて殺害の目的を遂げたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示殺人の所為は刑法第一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し処断すべきところ、本件の情状につき考察するに、本件は若い男女の恋愛に続く結婚の約束の破滅による悲劇事件であるが、

一、被害者島田保が被告人と結婚の約束をして、肉体関係もでき、被告人が妊娠までしているのに、無情にも約束を踏みにじり、結果において女を弄んだこととなる男性として極めて非難すべき無責任な行動に出たこと。

一、犯行当日突如別れ話を持ち出され、被告人は極度の衝撃を受け、この衝撃は当時妊娠中のため特に烈しかつたこと。

一、被告人は恵まれない家庭に生い立ち、現在もなお同様の境遇にあるが、信頼し、すべてを許した保より裏切られ、一時に生きる希望も失い、この絶望感と憎悪の念より保の殺害を決意し、自己もまた後を追わんと考えるに至つたものなること。

一、本件は全くの偶発的犯行なること。

一、被告人は二十歳に達した許りの年若き者なること。

一、被告人が犯行を悔悟していること。

等被告人に酌量すべき情状は多々あるけれども、しかし本件犯罪の結果はまことに重大であり、いかに保に許し難い事情があつたにしても、同人を殺害するということは短慮であり、行き過ぎであると云わねばならない。人を殺害した者はその重大な結果に対して責任を負わねばならない。即ちその罪の償をしなければならない。このことは生命の尊重、保護の立場より当然のことであり、また殺人犯に対する一般警戒の観点よりも必要己むを得ないことと云わねばならない。被告人もこの罪の償をすることによつて自己の心の中の重荷を軽くすることとなり、またかくすることは被告人が過失を清算して新しい生活に入る基礎となるものと思われる。

よつて本件では被告人に対し実刑は己むを得ないものと認め同法第六六条、第七一条、第六八条第三号を適用して酌量減軽をした刑期範囲内において被告人を懲役二年六月に処することにする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人が本件犯行当時心神喪失或は心神耗弱の状態にあつたと主張するので、この点について考えてみるに、判示認定のとおり被告人は当時妊娠中であつたうえ被害者の冷淡な仕打ちに憤激して咄嗟に本件犯行をなしたものであつて、当時被告人の感情が相当昂奮していたことは認められるけれども、被告人の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書によれば、被告人は各捜査官に対し本件犯行全般の模様殊に自己の内心における苦衷等を逐一供述しておりその供述は真に迫るものあり、又犯行決意の経過、犯行の状況についても大した矛盾も認められず、詳細に供述しており、しかも久保田ミツイの司法警察員に対する供述調書によると被告人は犯行直後旅館の女中久保田ミツイに対し殺人直後とは思えない程冷静に応対していることなどが明らかに認められること、並びに前掲各証拠及び当公廷において取調べた各証拠を綜合すると、被告人は本件犯行当時是非を弁別し又はその弁別によつて行動することが著しく困難な状態にあつたとは認め難いから弁護人の右主張はいずれも採用しない。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 中田勝三 尾鼻輝次 大西浅雄)

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